2012年2月25日土曜日

クルマの未来をおぼろげに考えてみる

まぁ、モーターショーの内容やテクノロジーなどなどを鑑みると、今後のクルマはインターネットにつながっていくことは間違いないでしょう。
そうなると、その個体に関わる全ての情報を一括で管理することが可能になってくる。

走行距離、メンテンス状況(メニュー、頻度)、交換パーツ、事故暦…etc

これらの情報は、現在クルマ業界に存在する様々な問題や課題を解決することに非常に有効なもので、考えただけでヨダレものです。そのため、関連事業者がみんなで共同利用して、業界に巣食うブラックな問題を解決していくことになるんじゃなかろうか?

しかし、個人情報等と密接に関わってくる可能性のある情報になるので(クルマがSNSとかと連動した日にゃあそれこそっ!)公的な然るべき機関がキチンと管理・運用をしていかなければいけなくなるでしょうね。

どっかの私企業が営利目的で利用しちゃあマズいよねぇ?(ってかイヤだもんなぁ)

今のうちから、そのあたりのことを見据えた取り組みや検証をはじめて、新しい社会問題に発展することを防ぐ必要がありはしないだろうかね?

2012年2月12日日曜日

万人受けは普通に不幸だ!



最も敬意の払えるパーソナリティとは誠実であることだと思う。
ただし、ここで言う誠実さとは、他者に対して公正であるとか、
嘘をつかないということが定義ではない。自分自身に対して誠実かどうかだ。
自分に誠実と言うと、利己的であったり傲慢であることが想像されがちだが、そういった意味ではない。自身の哲学・ポリシーにどこまで実直かどうかだ。
他人の目にどう映るかではなく、自分に納得ができるかどうかが最大の価値観である人物だ。
自分をさらけ出しながらも、周囲に折られないタフさを持った人物だ。
その言動に、距離をとるヒトが出たり、敵を作ることになっても意に介さない。
誰に対してもフラットでありのまま。
他人の価値観には生きないからこそ成しえる境地。
実はその方がつまらないストレスからは解放される。
これは生まれもった気質もあるのだろうが、多くは努力によるものなのだと思う。
「他人の価値観に生きない」、そうでありたい。

実は複雑な方が簡単だ!



物事はシンプルに考える。
単語にできるまで分解してみると、明確なカタチで解答が現れる。
難しく考えると”考えた気分”には浸れるが、それだけのことだ。
シンプルに単語にしていくと、その過程で余分なものは削ぎ落とされる。
悩んだら単語に分解してみると、意外と解決に至るかもしれない。
しかし、やってみると、コイツが案外ムズカシイ…。

神経衰弱はお好き!?



尊敬する人物を見つけること、自分の信条となる言葉を持つこと。
過去に恩人のひとりから与えられた課題。
それから何年も経過したが、前者に対する解は未だ持ち得ていない。
特定の個人を断定できずにいるため、この課題は達成できていない。
しかし後者については、ある程度の形がついた。
それは、”無駄な経験はない”というもの。
つまらなく思ったり、気が進まない物事からも、得られるものがある。
それは必ずや個人を形成する血となり肉となる。
いつ、どのタイミングで、どんなカタチでアウトプットされるかはわからないが、間違いなく確実なことだ。
そのまま流用できることはほとんどないため、意識がされることは少ないが、
日々絶え間なく行われている決断・行動は経験の蓄積の中から導き出されている。
経験はカードゲームの神経衰弱に似ている。
場に出ているカードが、どれだけ一度裏返ったことがあるかに比例して、正解率は高くなる。
もちろん、どこのカードが何だったかを意識的に記憶しておかなければならないが…。
経験にも同じことが言えて、無駄にはならない、無駄にはしないという意識を持って臨むことが重要で、
また、何にでもトライしてみるという姿勢が必要なのだと思う。
それらは必ず自分を救うことになる。

無敵の素ありマス。



集団の中での人間関係において要になるものは、おそらく”配慮”になるだろう。
他者をどれだけ思いやれるか、どれだけ他者の立場に立てるか。
それは豊かな感性・想像力が必要とされる、人格的な行為だ。
だがここで注意が必要なことがある。
自分は配慮に長けている、気が利いてる、と認識・公言している者の存在である。
彼等はまず間違いなく、配慮というものを自分に都合良く解釈しており、
他者の立場になど立ってはいない。
また、そんな感性も想像力も持ち合わせてはいない。
本当に配慮ができるヒトというものは、他者に何かをしてあげているという意識が皆無であるか、
不足な点や余地に意識を向けることができるので、自身が十分であるなどとは思わないのだ。
この誤った認識を持っている者は、非常に厄介な存在である。
彼等は自分の言動が良識あふれるものだと考えており、正しいことをしていると信じている。
そう、彼等は自分への評価において完璧なのだ。
彼等への対処というものは、距離を置くというネガティブな手法以外には想像ができない。

不文律の先に納得はなかった!?



“臭いモノには蓋をしろ”的な教育に常々疑問を感じている。
世界は善意に満ちており、平等・公正で、自分という存在は万人に肯定されている、
というひとつの錯覚が存在する。
特に学校など、そういう思想が根底に定義されている教育はとても危険だと思う。
何故なら、そんな世界は存在しないからだ。
そういう錯覚を認識として持たされた子供は、日々の生活の中で矛盾に遭遇する。
存在しない世界を教えられてきたのだから当然のことだ。
そこで子供は戸惑い、悩み、傷付くことになる。
時にそれは致命的なインパクトを持つこともある。
そうならないように、現実を正確に認識させて、それらとの付き合い方を教えてあげることこそが、
本当に教育に求められることなのではないかと思う。
特に平等という思想・概念は本当に危険だと思う。
これこそまったく存在しない、人間が作り出したフィクションに他ならない。
あらゆる生物の原理・原則は”強者が生き残る”というものだ。
そこに平等などあり得ない。
しかし、人間は社会的な生物であるが故に平等を信じたかった。
そこで、自らのパワーである宗教・哲学・モラル・法などの道具を駆使して、
生物の原理・原則の呪縛から逃れようとした。
だが、生物の一個体でしかない人間が、あらゆる生物の真理から除外されるはずもなかった。
当然、平等には矛盾が生じた。
それが今、存在している世界。
そういう世界に生を受けた事実を、きちんと伝えることが、全ての始まりになり得るのだと思う。

カチカチやまのぉ~たぬきサンっ♪



“価値の無いヒトなどいない”
ヒューマニズム的見地からのよく聞く言葉だが、ワタシはコレは正解であり、不正解だと思う。

ヒトの価値はそれが価値だと認識されて初めて存在し得るのだと思う。なんだかレトリックのようだが、
個人的な見解としては、価値だと認識し得る可能性のある何かは全てのヒトに備わっているが、
それが価値だと認識されないまま終わってしまうケースが大半なのではないかと推察している。

では、その価値の存在を誰が認識すれば解決するのか?

それは他でもない、自分が価値だと認識することだと思う。
価値の認識を他人に委ねるから苦しむ。他人の認識の中に見る自分という存在は、
鏡に写る自分を眺めることでしかない。
だから、他人の中に自分の価値を見出だそうとするのは間違いでありナンセンスだ。
自分の価値は自分が決める。
本当の意味で、自分を知り、信じられるのは、自分以外には存在し得ないのが真理だから。

しかし、人間は他人はおろか、自分のことすら完全に理解することは難しい。
そんな人間が普段ボンヤリ過ごしているなかで、自身の価値を正確に認識し得るのだろうか?
答えは否。わかるはずもない。
わかる努力もしないで、自分を平凡だと卑下して完結してしまっている。そんなヒトのなんと多いことか。

まぁ、そんなマジョリティーのひとりですがね…。

てきあがっちゃうとなかなか…ねぇ!?



ヒトはそうは変わらない。
これはワタシの持論。

ヒトが変わるタイミングがあるとすれば、大きく分類すると二つだと思う。

ひとつは、九死に一生を得るといった劇的な出来事に遭遇する。

もうひとつは、経験や学習・教育によって蓄積されたマテリアルが、
何かをトリガーにひとつに繋がる。

どちらも偶発的に起こるもの。
しかし、前者は一生のうちに一度も発生しないかもしれないのに対し、
後者はそのタイミングの存在を意識して、サインを見逃さないように心がけることで
捕まえられる可能性は高くなる。
常に意識をしていなければ、素通りしてしまうような一瞬だけど…。

捕まえるのが早ければ早いほど、人生の後悔は少ないんじゃないかと思う。
たぶん…。

中古車販売に選択肢はないのか?

現状、中古車を小売販売するには大手中古車掲載サイト(CS、Goo等)に掲載するしかない(だいぶ乱暴な結論付けだが)。
他にも販路は存在しているものの、中古車ビジネスの生態系においては掲載サイトがメインのプラットフォームとして市場を掌握している状況にある。

なぜ他の販売方法がないのだろうか?
Webが出現する以前は同じことを雑誌媒体で行っていた。雑誌がWebに変わっただけで本質的には変わりがない。

それは「中古車はこう買いましょう」と消費者に提案し、カタチを創った人たちのモデル。今や市場にはそれが常識として浸透してしまっているレベル。

とても合理的で効果的な販売方法なのだが、クリティカルな部分を他者に押さえられてしまっている。掲載を止めれば販路が無くなる、しかし、掲載はコスト負担も大きい。事業規模によってはアリ地獄のようでさえもある。

だが、事業者から消費者に直接リーチする手段があれば、このジレンマから開放されるかもしれない。幸いツールはそろいつつある。テクノロジーはこの問題を解決するかもしれない。

ツールを活用するためのリテラシーと、今日の成功を過去へと葬り去れるマインドセットが必要だ。業界のリテラシーの低さは近年改善されつつあるが、まだまだ高いとは言い難い。

マインドセットの問題はもっと深刻だ。

これまでのやり方、考え方の延長・拡張で取り組むと失敗することになるのではないか。トライを始めている事業者を見かけるようになってきたが、成功しているものはまだ見ない。それはまだ今までの枠組みの中で運用しようとしているからだと思う。トライ&エラーを繰り返して検証していくことでしか解は得られない。
このあたりのノウハウを共有できる仕組みがあると、新しい展開をリードできるのかもしれない。

ソーシャルグラフと中古車

ソーシャルメディアの発達と浸透で、ネットとリアルの世界に境界が無くなってきている。現実世界の信用や評価がネットでも判断材料となり、逆もまた同様になる。そうなると、中古車もソーシャルグラフを介して流通していくのではないだろうか。個人間取引に極めて近い流通形態が生まれると思われる。

”極めて近い”といったのは、クルマは税金や手続き関係が煩雑で、また、買ってお終いにはできない(メンテや車検等) 部分においては、今後も業者が介在することになると予測されるからである。

ソーシャルグラフで担保された個人の信用によってクルマの品質が確保され、また、そのクルマに関するストーリーを知ることができるようになる。これまで見ることができなかった部分が可視化されていくということは、情報をコントロールすることで利益を確保してきた業界にとっては、大きな変化になると考える。

情報強者から弱者へモノが移動する際に、実際の価値と情報の差が利益になる、そういう商売はソーシャルメディアの発達で縮小されていくように感じる。消費者はすごい武器を手にしたのかもしれない。

個人の取引をサポートし、問題を予防・解決する形で事業者が介在する、そういった仕組みが求められていくのではないだろうか。ソーシャルグラフと中古車と事業者、これらをテクノロジーが結びつける新しいWebサービスの可能性があるのではないだろうか。

中古車流通の今後を考えてみる

今現在、中古車流通におけるメインのインフラストラクチャーはオートオークション(AA)である。ディーラーや買取専門店はAAを通じて車両を換金することで業務を効率化しており、仕入側の中古車販売店も選択肢が豊富なAAを主たる仕入先と位置づけている。AAは現状の日本の中古車流通において、無くてはならない「ハブ」として機能をしている。しかし、現行AAモデルは早晩、限界を迎えることが確実である。そう遠くない将来において、中古車流通業界は新たなモデルを創出する必要に迫られることになる。

国内の人口は減少の一途を辿っており、将来的に自動車の販売・保有台数も比例して減少していくことになる。これは同時に、今後は国内での中古車が増加をすることはなく、主要な市場であるAAの出品台数も増加することはないことを意味している。

また、エコロジー思想、ライフスタイルや価値観の変化、経済環境の不透明感などにより、自動車を必須としない層も出現してきている。こうしたユーザーマインドの変化も、自動車の販売・保有台数減少の一因となっており、この流れは一時的なムーブメントで終わらないであろうことは想像に難くない。人口減少と意識の変化という要素は、AA市場規模を縮小させるには十分なインパクトを持っている。

その他、中間流通に関わるプレイヤーの動向もAA市場に大きな影響を与える。新車販売店や買取店はAA市場における主要な「タマ」の供給源であり、その出品割合は約40%(主要AA会場平均)にも上る。しかし、昨今の市場環境の変化に合わせて、供給源である各プレイヤー達は自社・系列から「タマ」を流出させない政策へシフトし始めている。新車販売の不調から中古車を強化したり、業販よりも利益率の高い直販に注力をしたり等、取組み内容や動機は様々だが、ユーザーから仕入れたタマを自社で商品化を行い、自社で販売をするという流れが顕著になってきている。これはAA市場に良質な「タマ」が供給されにくくなるということであり、AAは商品価値の低い車両の「放出の場」という性格を強めていくことになる。

また、中古車販売店のビジネススタイルの変化も重要なファクターである。長期に渡る小売販売の不振により、中古車販売店はリスクやコストの高い展示在庫を持たなくなりつつある。展示在庫を「看板」と位置付け、販売の軸足を「注文販売」にシフトする販売店も着実に増加をしている。また、他店との差別化、透明性・公正性を訴求する為に、「手数料販売」を採用している販売店も台頭し始めている。

必要な商品を必要な時に仕入れをする彼らにとっては、顧客の注文に沿った必要な車を仕入れることさえできれば、仕入先はAAである必然性はない。元々、AAは仕入先の選択肢のひとつでしかなく、「タマ」が豊富であることが理由で主たる仕入先となっていた。しかし、昨今のAA市場ではその強みであった豊富な「タマ」が減少してきており、なかでも、商品価値の高い良質な車両、いわゆる「良いタマ」の減少は特に顕著である。そのため、彼らが顧客の注文に沿った車をAAで見つけられる可能性が徐々に低下し始めている。AA市場では「タマ」を比較・選択できないことはおろか、そもそもAA市場には出ていないということも現実におこり得る状況になってきている。

こうした状況下では、この一台を逃すと他では簡単に見つけることができない、という希少性に顧客が納得さえすれば、多少は価格が上がったとしても顧客はその車両を購入することになる。当然、販売店側は顧客がその金額でも買うとなれば、相場に固執する必要は希薄になる。これは市場の価格を左右してきたAA相場崩壊の予兆である。そうなると販売店にとっては、多少価格が高めでも、顧客の希望する車両が確実に仕入れることができる「場」が、より魅力的なものとなる。

その一方で、中古車市場において希少価値が高まった「良いタマ」は、様々な販路においても引き合いが強く、AA以外の取引においても高値を維持することが可能になる。つまり、出品側にとっては、AA以外にも高値で換金することができる「場」があれば、そちらへの出品も十分に選択肢となり得るのだ。

この出品側・落札側の両者にとって、魅力的な「場」として急速に成立しつつあるのが「共有在庫市場」である。そして、この「共有在庫市場」と現行AAとは決定的な違いが存在する。それは「明示された価格」と「時間」である。

前述の「注文販売」を行っている販売店にとっては、現行AAモデルは極めて非効率なものである。せっかく注文があっても、仕入れができるかもわからない、正確な金額もわからない、納車日も確約できない、全ては開催日まで待たなければわからない、という現行AAモデルは、スピード・確実性を欠いた非合理的なモデルであると言わざるを得ない。彼らが求めることは、必要な車を必要な時に、確実に仕入れることであり、顧客の要望に明確に答えることである。そんな彼らのニーズを満たすことは、現行AAモデルでは困難であるが、「共有在庫市場」では可能なのである。

そして重要なことに、彼らは決して特殊なマイノリティーではないということだ。インターネットの普及に伴い、中古車流通は業者間のクローズドの世界から急速にオープン化が進んでいる。業者間AAの存在や、その仕組は広くユーザーに認知されるものとなり、また、相場情報も簡単に入手が可能である。他にも様々な問題点を孕みながらも、ネット上での個人間取引・業者間取引も活況を帯びてきている。そうした現在の状況と、前述のAA規模の縮小とを合わせて推察をすると、「注文販売」「手数料販売」という流れは、これからの確実なトレンドである。

この時流の中では、過去において「車屋」としての成功体験(いくら抜いてやったというような体験)が強烈な業者の一部は、前述のトレンドへとマインドをシフトさせられず、淘汰される者も出てくることになるであろう。今後は、中古車販売店の母数も間違いなく減少をしていくことになる。

これらのことから、中古車流通における「ハブ」「市場(いちば)」としての
AAは、遠くない将来において、その役割を変化させられることになる。今後AAは「換金の場」としての機能は残しつつも、「仕入れの場」としての機能については「共有在庫市場」に取って代わられることになる。また、その「共有在庫市場」も、そう遠くない時期に業者間取引のクローズドな場ではなくなることが予想される。

何故ならば、前述の理由から「タマ」不足になった中古車市場は、新しい「タマ」を求めて、中古車の発生源であるユーザーの情報を押さえることに注力することになるからである。そして、中古車を源泉で押さえようとすればするほど、ユーザーと中古車流通市場の距離は短くなっていく。セカンドハンドの流通における究極形はC2Cであるため、ネット上で個人間取引が既に存在するように、早晩、ユーザーは自分の車両を自分の手で流通に乗せようとするであろう。その結果、「共有在庫市場」は、売るのも買うのも主体はユーザーになるものと考える。しかし、車はその特性上、多くのユーザーにとっては少なからずBの介在を必要とするものである。中古車流通市場におけるBの存在が無くなることはないが、そこでのBの役割は変質することになる。ユーザーの取引におけるサポート業務(諸手続き代行や整備等)を行い、その対価として手数料を受け取るという「完全手数料モデル」へとシフトしていくことになる。

また、C2C(個人間取引)の大きな問題点を解決するためにもBの介在は必要となる。現状の個人間取引には、検査・保証体制が間に入る仕組みがないため、胡散臭い中古車屋から購入するよりも、もっと「アブナイ」商品となってしまっている。この問題に、プロフェッショナルであるBが介入し、「安心感」や「信用」という価値を付加することができれば、C2Cはオフィシャルな市場として確立されることになる。

以上のことから、中古車流通における次の新しいモデルは、現状の個人間取引における問題点を解消した「C2C共有在庫市場」(おそらくはバーチャルなものである)になると考える。そして、「C2C共有在庫市場」を早期に構築した者が、次の覇者として市場を牽引していくことになるであろう。しかし、この覇者は、AAを基幹事業として成長をしてきた事業者では困難であると考える。AA事業者にとっては、これはAA否定・自己否定と同義であるため、恐らく現状のAA事業者の多くは自己否定ができず、ブレイクスルーには至らないからである。

この覇者になり得るのは、以下の要素を持った(またはアライアンス先を保有している)事業者であると考える。
①  中古車流通に近い
② AA事業者と直接的な利害関係にない
③ 「車屋」をメインの顧客としていない
④ Cとの接点を持っている
⑤  全国を対象としたネットワークを持っている

変化の瞬間は迫ってきている。