2012年5月2日水曜日
クルマによって生じる「歪み」は現実として存在する
photo credit: Thomas Hawk via photo pin cc
最近、クルマが関係する痛ましい事故のニュースが続いています。
クルマの存在に関わることを仕事にしている身として、いろいろと考えさせられました。
クルマの利便性や価値を安全に享受するということは、あたり前のことでも当然のことでもない。
利用者自身や歩行者を含む交通社会に参加する人々を危険にさらし、化石燃料をガブガブ消費し、CO2等の環境汚染物質を空気中に排出し、製造・輸送・廃棄にも膨大なエネルギーを使う。
お金を生み出し回していく産業や経済としての価値、移動や輸送といった社会活動の効率化、時間の圧縮や人力の増幅といった不可能の実現、研究開発による科学技術の向上、感性や欲求に答える情緒性。
クルマは、善悪では判断できない、定義できない、様々な要素で構成されています。
ただ、ひとつだけハッキリしているいるのは、クルマによって生じる「歪み」は現実として存在するということです。
クルマの価値を享受するヒトは「歪み」に対して、もっと働きかける必要があるのではないでしょうか。
クルマで失われる自然環境に対して
クルマで失われるエネルギーに対して
クルマで失われる人命や繋がりに対して
もっとたくさんの物事があると思います。
そしてこれは強制される義務ではなくて、責任ともちょっと違っているように思います。
もっと内発的な、自発的な心の動きとでもいいましょうか。
曖昧で具体性を欠く、適切に明文化できない漠然とした感情の一部です。
クルマを無くすことはできません。
また、そうすることが良いことではありません。
具体的にどのようにアクションをすればいいのか、何をすることが正解なのか、能書きたれているワタシにも明示することができません。
まずは、気づいたことから始めてみる、実際に行動に移してみる、ということからしか見えてこないように思います。
クルマで出かけて帰ってきたら、まずは無事に帰ってこれたことに感謝してみましょう。
それは、あたり前のことでも当然のことでもないのですから。
そこから見えてくることがあると思います。
ラベル:
中古車流通将来